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東京地方裁判所 平成元年(行ウ)34号 判決 1992年7月27日

原告

東日本旅客鉄道株式会社

右代表者代表取締役

住田正二

右訴訟代理人弁護士

茅根熙和

春原誠

被告

中央労働委員会

右代表者会長

石川吉右衞門

右指定代理人

萩澤清彦

外三名

被告補助参加人

国鉄労働組合東京地方本部

右代表者執行委員長

佐藤智治

被告補助参加人

国鉄労働組合東京地方本部

八王子支部

右代表者執行委員長

新井重雄

被告補助参加人

国鉄労働組合東京地方本部

八王子支部新宿車掌区分会

右代表者執行委員長

谷合和雄

右被告補助参加人ら訴訟代理人弁護士

海渡雄一

中光弘治

宮里邦雄

岡田和樹

志村新

渡辺正雄

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、補助参加によって生じた費用を含め、原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が中労委昭和六三年(不再)第一四号事件について昭和六三年一二月七日付けでした命令を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  被告補助参加人らは、原告を被申立人として、昭和六二年六月二二日、東京都地方労働委員会(以下「都労委」という。)に救済申立てをし(都労委昭和六二年(不)第四六号事件)、都労委は、昭和六三年二月一六日付けで別紙(一)のとおりの主文の命令(以下「初審命令」という。)を発した。

原告は、初審命令を不服として、被告に再審査の申立てをしたところ(中労委昭和六三年(不再)第一四号事件)、被告は、昭和六三年一二月七日付けで別紙(二)のとおりの命令(以下「本件命令」という。)を発し、右命令書の写しは同月二八日原告に交付された。

2  しかし、本件命令は、事実認定及び法律判断を誤った違法なものであるから、その取消しを求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1の事実は認める。

三  被告及び被告補助参加人らの主張

1  被告の主張

本件命令の理由は別紙(二)の命令書写しの理由欄記載のとおりであり、被告の事実認定及び法律判断に誤りはない。

2  被告補助参加人らの主張

(一) 原告が、昭和六二年六月八日、運転担当の内勤車掌であった田中博に対し、電車乗務への担当業務の指定変更(以下「本件指定変更」という。)をしたことは、労働組合法七条一号にいう「不利益な取扱」にあたる。

(1) 労働組合法七条一号の「不利益な取扱」とは、経済的待遇に関する不利な差別待遇のみでなく、広く精神的待遇等についての不利な差別待遇をも包含することは判例の一致して認めるところである。

(2) 本件指定変更前の担当である内勤車掌とは、車掌区においては、区長、助役に次ぐ管理職的な地位である。原告東京圏運行本部新宿車掌区の運転作業要領にも、「区長―助役―内勤車掌―車掌」という指揮命令系統が明記されており、内勤車掌が職名の上では電車乗務の車掌と同じく車掌であっても、指導的、管理職的位置付けをされていることは明白である。これに対して、変更後の担当である電車乗務は内勤車掌に指揮命令される立場である。したがって、本件指定変更は降格であって、その不利益性に疑問の余地はない。

(3) 田中は、日常的な後進の指導や増収、業務上の提案等に極めて優秀な活動実績を上げ、心から車掌の仕事を愛し、業務の経験を深めてきた。田中は、その経験をもって後進の車掌の指導にあたりたいと考えた。同人にとって、自ら希望して就いていた国鉄当時の運用教導掛、それに引き続く内勤車掌の仕事からE電の電車乗務に降格されたショックは大きかった。本件指定変更当日、鵜沼助役が、「みじめになるよ」。と言ったのは、点呼する立場から点呼される立場への指定変更がいかなるものであったかを表している。

(4) 原告は、賃金、諸手当の額に変化のないこと、職名が同一であること、運用教導掛ないし内勤車掌への希望者が少ないことをもって、不利益性を否定しようとしているが、経済的不利益性や職名の異同は労働組合法七条一号の不利益性を肯定するための要件ではない。また、運用教導掛ないし内勤車掌への希望者数と不利益性とは無関係である。どのような企業にあっても、管理職的、指導的な立場に立ってその能力を発揮したいと思う者と専門的職能を生かしたいと考える者の両方が存在するのであり、たまたま原告主張の時期の新宿車掌区に後者に属する者が多かったとしても、前者に属する者にとっては、管理職的、指導的な地位から外されることが不利益であることはいうまでもない。

(二) 本件指定変更の動機は、田中が国鉄労働組合(以下「国労」という。)に所属していることにあり、小集団活動に対する態度いかんではない。

(1) 田中は、若手職員の信望が厚く、リーダーとしての資質はだれもが認めるところであった。それゆえに、原告は、同人が国労を脱退すれば、多くの若手組合員の脱退を期待できると考え、同人に対する脱退勧奨を集中して行った。しかるに、田中が依然国労に所属しているために、本件指定変更がなされたのであり、原告新宿車掌区の青木区長は、被告補助参加人国鉄労働組合東京地方本部八王子支部新宿車掌区分会(以下「補助参加人分会」という。)の谷合分会長に対して、その動機を明白に語っている。

(2) 原告は、本件指定変更の理由につき、「小集団活動の指導育成に力を発揮してくれることを期待して田中を内勤車掌にしたにもかかわらず、三か月を経過しても依然として小集団活動に否定的な態度をとっているので、やむなく元の電車業務に戻すことにした。」と主張するが、これはまったく虚偽の主張である。

まず、田中は、いきなり新宿車掌区本区の内勤車掌になったのではない。同人は、国鉄当時の昭和六二年三月には、仕事上の能力を評価されて運用教導掛(中野派出担当)になり、原告会社発足時である同年四月には、派出担当の内勤車掌となり、同年五月には、新宿車掌区本区の内勤車掌となった。派出担当の内勤車掌から本区の内勤車掌への異動も昇格である。もし、田中が小集団活動に否定的な態度を同年三月以降三か月間取り続けたというのであれば、同年五月に中野派出担当の内勤車掌から本区の内勤車掌への昇格人事が行われるはずはない。また、田中が小集団活動自体に否定的な態度をとっていたものでないことは、新宿車掌区の高橋首席助役も認めているところである。

(3) なお、原告は、青木区長が谷合分会長に語った本件指定変更の動機に関する発言を録音したテープの反訳書である<書証番号略>の証拠能力を争うが、右発言が録音されたのは、谷合分会長がテープレコーダーの性能を試すために持っていた偶然の結果にすぎない。また、原告は、不当労働行為的言辞を引き出そうとしたと主張するが、同分会長はほとんど一方的に話を聞いていただけで誘導したりしたことはまったくない。これをもって反社会的であるとか、労使間の信義に反するなどとはいえない。

四  原告の認否、反論

1  本件命令理由欄「第一 当委員会の認定した事実」についての認否は次のとおりである。

(一) 「1 当事者等」について

(1) (1)の事実は認める。

(2) (2)の事実中、被告補助参加人国鉄労働組合東京地方本部(以下「補助参加人東京地本」という。)の組合員数は知らない、その余の事実は認める。

(3) (3)の事実中、被告補助参加人国鉄労働組合東京地方本部八王子支部(以下「補助参加人支部」という。)が補助参加人東京地本の下部組織であることは認めるが、その余の事実は知らない。

(4) (4)の事実中、補助参加人分会の組合員数は知らない、その余の事実は認める。

(5) (5)の事実中、各労働組合の組合員数は知らない、その余の事実は認める。

(二) 「2 本件に至るまでの労使の事情」について

(1) (1)の事実は認める。

(2) (2)の事実中、国労の組合員数が減少したことは知らない、その余の事実は認める。

(3) (3)、(4)の事実は認める。

(4) (5)の事実中、内勤車掌について、泊り勤務経験者から日勤勤務の担当となる人選がなされる等の運用は、国鉄当時の運用教導掛と同様であるとの事実は否認し、その余の事実は認める。

確かに、国鉄時代の運用教導掛については、泊り勤務経験者から日勤勤務の者が人選されるという運用がなされていたが、原告になってからは、国鉄時代の年功序列的人事を排し、適材適所による弾力的人事を行っているから、今後、泊り勤務の経験を経ないで日勤勤務の担当になることは十分あり得ることである。原告が新会社として発足した昭和六二年四月一日以降の新宿車掌区においては、日勤勤務(行路担当、営業担当、運転担当)の指定は、田中の場合を除くと、同年四月と六月にいずれも営業担当に指定された二例があるにすぎず、そのいずれもが泊り勤務経験者から指定されたことは事実であるが、それだけで国鉄当時と同様の運用がなされていると認定することは早計である。また、乗務する車掌が、当初、国鉄当時と同じく「車掌長」、「専務車掌」又は「車掌」と記載された腕章を着用していたのは事実であるが、これは移行時の過渡的な扱いにすぎず、昭和六三年四月以降は全社員が新しい制服を着用することになり、腕章はつけないことになった。

(5) (6)の事実中、昭和六一年一二月以降運用教導掛を中心に国労を脱退する者があったこと、昭和六二年六月九日以降の各労働組合員数は知らない、その余の事実は認める。

(三) 「3 田中の勤務状況等」について

(1) (1)の事実中、田中の国労組合員としての経歴は知らない、その余の事実は認める。

(2) (2)の事実中、田中が内勤車掌の中でトップの成績を挙げたことは否定し、その余の事実は認める。

昭和六二年のゴールデンウィークの増収活動とは、多人数の旅客に対応するために通常の出札窓口のほかに新宿駅の三、四番ホームに設置した特別改札の業務であったが、この業務に内勤車掌のうち誰を何日従事させるかは、内勤車掌の自発的申し出によるものではなく、助役が内勤車掌の業務の繁閑等を考慮して決めていたものであり、他の内勤車掌が一日あるいは二日しか特別改札の業務に従事しなかったのに対して、たまたま田中が四日間連続して従事したために、結果的に同人の売上金額が一番多くなったにすぎない。したがって、同人の成績がトップであったと評価することはできない。

(3) (3)の事実中、田中が他の労働組合の組合員によって構成される小集団活動グループである「あずさ会」、「研さん会」や助役クラスによって構成される「飛燕会」に参加しなかった理由が国労組合員であったためかどうかは知らない。その余の事実は認める。

(四) 「4 田中に対する担当業務の指定替えと区長らの言動等」について

(1) (1)の事実中、高橋首席助役の発言内容は否認し、その余の事実は認める。

高橋首席助役は、専ら小集団活動について話をし、国労だから小集団活動に入らないという田中の考えは誤りであると指摘したのである。

(2) (2)の事実中、青木区長の発言内容は否認し、その余の事実は認める。

青木区長が述べた意識改革とは、民間企業になったのだから親方日の丸的考えはやめて民間企業の社員としてふさわしい意識を持つべきだという趣旨であって、国労からの脱退を勧奨したものではない。

(3) (3)の事実は認める。

(4) (4)の事実中、同年六月五日に青木区長が勤務終了後の田中を呼んだこと、その場に高橋首席助役が同席していたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(5) (5)の事実中、青木区長と田中の会話内容、高橋首席助役及び鵜沼指導助役の田中に対する各発言内容、運用教導掛ないし内勤車掌から電車乗務に指定替えになった例がないことはいずれも否認し、その余の事実は認める。

田中を内勤車掌にしたのは、小集団活動の指導育成に力を発揮してくれることを期待したからであったが、同人の小集団活動に対する否定的態度が変わらないので、同年六月五日、青木区長が田中に対し、そのような態度をとり続けるのであれば電車に乗務してもらうこともある旨伝えたところ、同人は、同月八日まで考えさせてほしいと一旦返事を保留したものの、結局当日、青木区長に対し、小集団活動に関する考えは変わらないと回答したので、やむなく田中を元の電車乗務に戻すことにしたものである。同区長や高橋首席助役が田中に対し国労からの脱退を勧奨したことはない。

また、田中は、わずか三か月前まで電車に乗務していたものであり、電車乗務に戻ることが「みじめになる」ということは考えられないことである。

さらに、運用教導掛から電車乗務に指定替えになった例として、昭和五九年一一月の劔持勇と岩下毅の例があり、また、新会社になってからの内勤車掌から電車乗務への指定替えは、昭和六三年中までに東京圏運行本部全体では計一一例がある。

(6) (6)の事実中、青木区長の谷合分会長に対する発言内容は否認し、その余の事実は認める。

本件命令は、青木区長の谷合分会長に対する発言について、同分会長が同区長に無断で録音したテープの反訳書である<書証番号略>に基づいて認定した。しかし、その証拠能力は否定されるべきである。

すなわち、谷合分会長は、補助参加人分会員猪野某の乗務停止処分問題を口実に青木区長に面会を求め、不当労働行為的言辞を引き出して、それを無断録音した上、労働委員会における不当労働行為救済申立事件での証拠として使用することを企図したものであるから、右無断録音は、録音の目的、手段、方法が著しく反社会的であり、労使間の信義を著しく損なう行為である。したがって、<書証番号略>は証拠能力を有しないと言うべきである。

また、仮に、同号証に証拠能力が認められるとしても、青木区長の右発言は、谷合分会長が不当労働行為的言辞を引き出そうという目的のもとに種々誘導した結果なされたものであるから、極めて信用性に乏しいものである。

(7) (7)の事実中、掲示及び区報の記載内容について補助参加人分会員がどのように理解したかは知らない、その余の事実は認める。

(8) (8)の事実中、鵜沼指導助役の発言内容は否認し、その余の事実は認める。

同助役は、岩崎助役とともに、吉沢文夫、中込泉に対し、乗務行路や収入の確保、運転事故防止等について話しただけである。

(9) (9)の事実中、被告補助参加人らが本件救済申立てをしたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(10) (10)の事実は認める。

2  本件指定変更は、職名の変更を伴わない単なる担当業務の変更にすぎず、田中には、地位又は格付けの上でも、また、賃金面でも、さらに、組合活動面でも不利益は生じていないから、労働組合法七条一号にいう「不利益な取扱」には当たらない。

(一) 内勤車掌は運用教導掛とは異なるものであり、本件指定変更は、職名の変更を伴わない単なる担当業務の変更にすぎない。

(1) 国鉄時代には、車掌区従業員の職名は運用教導掛、車掌長、専務車掌と細分されており、運用教導掛になることは職名の変更を伴うもので、いわゆる昇格に該当した。運用教導掛になるためには、現場長の推薦に基づいて管理局での面接試験に合格することが必要であり、その発令は管理局が行い、辞令も交付された。待遇面でも、運用教導掛は最低職群が七職であったから、七職になっていない者が運用教導掛になると基本給が上がった。本件命令は、こうした国鉄時代の運用教導掛と内勤車掌とが同一性を有するかのように捉えて、本件指定変更が国鉄時代でいえば、二段階下位への格下げであると判断しているが、後記のように両者間には同一性はない。

なお、そもそも国鉄時代においてすら、むしろ圧倒的多数の職員は列車や電車に乗務することを希望しており、車掌区の職員にとって運用教導掛になることは必ずしも望ましいことではなく、運用教導掛を希望する職員は非常に少なかった。田中自身も、運用教導掛になるように勧められるまでは新幹線の車掌になることを希望していたのである。運用教導掛の希望者が少なかった理由としては、一日中助役の監督下で窮屈な思いをするより、車掌として乗務する方が気楽であること、内勤になると乗務手当が付かないので相当の減収になることが挙げられる。そのため、当時ですら、運用教導掛になることが利益であるという一般的な認識はなかったのであり、運用教導掛を自ら希望するというのは、体調が悪かったり、年をとって体が思うようにならず乗務に耐えないとか、他の職場に転出する準備のためなどの場合であった。

(2) 国鉄時代の、運用教導掛、車掌長、専務車掌といった職名の細分化に対し、原告においては、職名を主任車掌と車掌の二種に統合した。そして、従来の運用教導掛が行っていた業務、すなわち、操縦、概算、行路、派出、営業、運転の各業務は、車掌職のうち内勤の者(職名ではないが、「内勤車掌」と呼ばれている。)が行うことになった。原告会社の職制上、上位の職名に異動することを昇職、賃金規程上、上位の等級に異動することを昇格、両者を併せて昇進と呼んでいるが、社員の昇進は、毎年全社統一で試験を実施し、社員としての自覚、勤労意欲、執務態度、知識、技能、適格性、協調性、試験成績等の人事考課に基づいて公正に行われることになっている。このような昇進等によって、職名、等級に異動が生じたときは、有利、不利の評価の対象となり得る。しかし、同一の職名内における担当業務の変更は、各現場長の専権事項であり、どの社員にどの業務を担当させるかは、現場長が社員の能力、適性や業務の特性を考慮し、適材適所で行う事実上の行為にすぎない。同一職名内には、比較的責任の重い業務とそうでない業務、比較的指導的な業務とそうでない業務が含まれている場合があるが、それは質的な違いではなく、指揮命令系統上は同一レベルに属するもので、どの業務を担当するかは、有利、不利の評価の対象にはなり得ない。

本件指定変更は、職名の変更を伴わない単なる担当業務の指定変更であって、現場長である新宿車掌区長の権限で、試験もなく、辞令の交付もなされず行われたものにすぎないのであり、田中にとって地位又は格付けの上で不利であるとはいえない。

(3) なお、原告会社発足に際しては、国鉄当時の運用教導掛であった者がそのまま内勤車掌に指定されたが、国鉄時代に運用教導掛が行っていた業務が新会社においても存続しているのであるから、移行をスムーズに行うために人員配置体制をそのまま新会社の体制としたものにすぎず、そのことをもって新宿車掌区における職制が実質的に国鉄時代と同一であるということはできない。

(二) 担当業務が運転担当の内勤車掌から電車乗務に変わっても、基本給は同一であり、諸手当はかえって増えるから、田中にとって不利益どころかむしろ利益である。

すなわち、電車乗務になると、日勤勤務の運転担当には付かなかった夜勤手当、特勤手当、旅費が支給されることになり、それらの月当たりの平均支給額が約一万六〇〇〇円あることから、月収はその分増えることになる。田中にも右の程度の増収があり、何らの経済的不利益がないことは明らかである。

(三) 組合活動の面でも、本件指定変更によって不利益は生じていない。

本件指定変更は、田中をわずか三か月前に担当していた業務に戻したものにすぎないから、同人の組合活動や生活の面で不利益になることはない。

3  田中が内勤車掌として期待される小集団活動の指導育成に否定的な態度を取り続けたため、原告はやむなく同人を元の電車乗務に戻したもので、本件指定変更には合理的理由がある。

(一) 小集団活動とは、同じ職場内の自主活動小グループが自己啓発、相互啓発を行いながら、職場改善に継続的に取り組む活動である。原告は、健全経営のもとで良質、斬新かつ多様なサービスの提供を目指す企業理念の実現のために、多くの民間企業で導入されている小集団活動の実施が望ましいと考えてこれに全社的に取り組んでいる。新宿車掌区においても、全社員に対して、小集団活動に参加して職場の改善、活性化を図るよう指導、奨励してきており、その結果、当時でも四つの小集団において、沿線ガイドブックや鉄道英会話集等の作成、運転事故防止研究会の開催等の多くの成果が上げられていた。

(二) 田中を内勤車掌にしたのは、主として、小集団活動の指導育成に力を発揮してくれることを期待したからである。新宿車掌区では、原告会社発足後、一〇項目の管理目標を定め、その一項目毎に担当者として助役一名と内勤車掌二名を割り当て、右管理項目の一つである「小集団活動」には鵜沼指導助役と田中らを配置した。小集団活動の責任者である鵜沼指導助役は、田中に対し、小集団活動を担当する内勤車掌は小集団活動を行おうとする者を指導するために自ら小集団活動を行って経験を積む必要があるなどと再三にわたって指示したが、田中はその指示に従わず、小集団活動に対し否定的な態度を取り続けた。田中は、小集団活動に否定的態度をとる理由として、小集団が国労を脱退した人たちのグループであると述べていたが、小集団活動の担当者としては、所属組合のいかんとは関係なく指導育成を行うべきものであり、また、他の車掌区では、国労組合員が小集団活動を行っているところもあり、田中の述べる理由は首肯できないものであった。

(三) 青木区長は、小集団活動の指導育成に力を発揮することを期待して、田中を内勤車掌にしたにもかかわらず、三か月を経過しても依然として否定的態度をとっていたので、やむなく元の電車乗務に戻すことにしたもので、本件指定変更には合理的理由がある。本件命令は、本件指定変更を行ったのが性急にすぎるというが、田中が小集団活動に対して否定的考えを確信的に有し、それを変えない以上、すみやかに担当業務を変えることはむしろ当然である。

第三  証拠<省略>

理由

一当事者間に争いのない事実、<書証番号略>及び証人高橋健二、同鵜沼一夫、同伊藤嘉道、同田辺滋、同米山茂、同田中博の各証言並びに弁論の全趣旨によると、次の事実が認められ、<書証番号略>の各記載及び証人高橋健二、同鵜沼一夫、同伊藤嘉道、同田辺滋の各証言のうち、この認定に反する部分は採用せず、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

1  (当事者等)

(一)  原告は、昭和六二年四月一日、日本国有鉄道改革法に基づき、国鉄が経営していた旅客鉄道事業のうち、青森県から静岡県の一部までの一都一六県における事業を承継して設立された会社であり、首都圏の列車、電車の運行を司る東京圏運行本部を設け、その下に現業機関として車掌区、電車区等を置いている。

新宿車掌区は、東京圏運行本部の現業機関の一つであり、その担当範囲は、昭和六二年四月当時は、列車区間として新宿から小千谷までと新宿から千葉まで、電車区間として三鷹から千葉までと中野から三鷹までの営団地下鉄東西線であって、その行路総数は六七、社員数は約一六五名であった。

なお、国鉄当時の新宿車掌区は、東京西鉄道管理局の下の現業機関の一つであり、昭和六一年当時約一八五名であった。

(二)  補助参加人東京地本は、国労の下部組織であり、原告の事業地域のうち東京を中心とする地域に勤務する者らで組織される労働組合である。

補助参加人支部は、補助参加人東京地本の下部組織であり、原告の社員のうち横浜線、南武線、中央線、八高線、武蔵野線、青梅線及びこれに関連する職場に勤務する者らで組織される労働組合である。

補助参加人分会は、補助参加人支部の下部組織であり、原告の社員のうち新宿車掌区に勤務する者らで組織される労働組合であって、その組織率は、昭和六一年九月ころはほぼ一〇〇パーセントであったが、昭和六二年四月から同年六月ころの間は七割程度であった。

2  (国鉄及び原告における車掌等、特に運用教導掛及び内勤車掌の地位)

(一)  国鉄当時の就業規則によると、区長は、同車掌区の業務全般の管理、運営を、助役は区長の補佐、代理を、運用教導掛は各助役の補佐を、車掌長は優等列車(特急、急行)に乗務する車掌の長を、専務車掌は優等列車への乗務を、車掌は緩行電車又は列車への乗務を、それぞれ担当業務としていた。そして、車掌区の指揮命令系統は、就業規則のうえでは、本件命令書第1の2の(4)(六頁)記載のように一般的に定められていたが、個別の車掌区等の実情等にあわせて別途の定めがあり、新宿車掌区の指揮命令系統は、運転作業内規により本件命令書右同所(七頁)記載の表のように定められており、右指揮命令系統表は、一面においてこれら各職相互の格付けを意味していた。

国鉄当時は、車掌から専務車掌への昇職、専務車掌から車掌長への昇職はほぼ年功序列的に運用されていた。また、運用教導掛への昇職は、通常、車掌長または専務車掌経験者中の希望者から区長の推薦を受けた者が東京西鉄道管理局の面接試験に合格することが必要とされており、給与上の最低職群が専務車掌は五職、車掌長は七職、運用教導掛は七職とされていたので、七職になっていない専務車掌等が運用教導掛に任命されると七職に昇格するため基本給が上がることになり、まず、その意味で運用教導掛になることは、職員一般に昇格と受けとめられる制度上の実体を有していた。

そして、運用教導掛への発令についても年功序列の考えが強く、車掌等の中の希望者のうちで経験等の長い者が選ばれるという実態があった。すなわち、運用教導掛への発令は、助役に昇進するための階段ということではなく、むしろ、助役になるための中級試験に合格しなくても、勤務の年数ないしは経験が長くなっていることから、指導される立場から補佐とはいえ指導する側に回すための人事であり、そのような運用面でも、運用教導掛になることは昇格と受け止められるだけの実体を有していた。なお、右のような一般的運用のもとでも、逆に運用教導掛から乗務車掌となる例は皆無ではなかったが、それは本人の特殊な希望等による例外的事例にすぎなかった。

また、右運転作業内規等によると、運用教導掛は、操縦担当(三名)、概算担当(三名)、派出担当(三名)、行路担当(一名)、営業・運転担当(二名)に分かれており、それぞれの分担する業務内容は概ね本件命令書第1の2の(4)(八頁)記載の表のとおりである。そのうち操縦担当、概算担当、派出担当は二四時間の交替制勤務に就くいわゆる泊り勤務が、行路担当、営業・運転担当は日勤勤務が原則であったが、通常は、派出担当から概算担当あるいは操縦担当を経て日勤の運用教導掛へというように、泊り勤務の運用教導掛経験者から日勤勤務の運用教導掛に任命されることが多かった。こうした泊り勤務と日勤勤務の関係は、助役についても同様であり、通常の異動の順序は、泊り勤務の当直助役から日勤の指導助役へという方向であって、逆はなかった。このような運用の結果、職員一般の認識として、日勤勤務の者の方が泊り勤務の者よりも一段格が上とみられていた。

新宿車掌区における派出担当の運用教導掛とは、中野駅にある中野派出所に勤務し、同所で、乗務員の出退の確認、行路整理、要員操配、添乗を含む乗務員の指導等の業務を行うものであり、乗務員の点呼をとり、これを指導する立場にあった。また、運転担当の運用教導掛とは、運転作業内規の規程上は「営業・運転担当」と営業担当と一括して記載されているが、運転担当助役の補佐及び同助役から命ぜられる業務を行うとともに、添乗その他により乗務員の指導訓練、車掌の育成指導等を行うことを業務としており、乗務員の点呼をとる立場にあって、指導業務を中心としていた。こうした指導的立場にあることも運用教導掛を一般の乗務車掌より格上とみる根拠の一つとなっていた。

なお、新宿車掌区においては他の大方の車掌区と同じく、列車又は電車に乗務する車掌は、「車掌長」、「専務車掌」、「車掌」という腕章を着用していて、それぞれの立場が職員相互間で一見して識別することができるようにされていた。そして、当時の運用教導掛は、「運教」と通称され、また「教導」と記したプレートを着用していた。

(二)  原告会社の発足に伴って、国鉄当時とは異なる民間企業体としての考え方に基づいて就業規則が新たに制定され、車掌区の社員の職名も原告主張のように変更された。すなわち、原告の就業規則においては、一般社員の給与制度上の格付けとして、一等級から九等級までの等級区分が決められていて、その各等級内の各号俸に分かれた基本給が定められており、その格付けが上がることを原告の就業規則上では「昇格」という名称で呼んでいる。一方、同就業規則上の職名は、車掌区においては車掌、主任車掌、助役、区長等というように定められ、このような職名が上位に移ることを「昇職」、これと「昇格」とを併せて「昇進」と呼んでいる。

これに対して、車掌における各担当業務の別、助役における首席、指導、当直等の別は、右職制の上では、同一職名内の担当業務の違いという建前になっており、したがって、当直助役が指導助役になるのも、指導助役が首席助役になるのも、また、列車、電車乗務の車掌が内勤になるのも、各内勤の中で派出担当から運転担当になるのも、すべて担当業務の指定又は変更という形式で行われることになる。そして、車掌等の職については、右の担当業務の指定又は変更は、職場長(新宿車掌区では区長)の権限とされ、原則として、毎月二五日に発表される翌月一か月間の勤務指定表により行われることになっている(なお、列車又は電車に乗務する車掌が一勤務毎に順次乗務すべき列車又は車両の順序を定めた乗務行程のことを交番と呼び、右勤務指定表に基づいて日々の交番表が作成されていたが、国鉄当時から勤務指定表を通称で交番表と呼ぶ場合もあった。)。

こうした原告の就業規則に基づく制度の建前の上では、内勤と列車又は電車への乗務との間には、形式的な上下の関係はなく、また、いずれになったからといって当然に基本給が変更になるといったこともなく、実際にはむしろ内勤の者より乗務車掌の方が賃金の手取額が多くなる傾向がある。

(三)  しかしながら、少なくとも原告発足から間もない本件指定変更当時は、内勤と乗務との間に上下関係がないという建前は現実のものではなかった。

すなわち、まず、制度について、業務の担当間の指揮命令系統を定める根拠規定という観点からみてみると、原告の発足に伴い、就業規則の上では、車掌区の指揮命令系統を本件命令第1の2の(5)(一〇頁)記載のように一般的に定めたものの、それはあくまで就業規則上の職名に対応した形式にすぎず、首席助役や当直助役等の各助役、操縦担当や派出担当のいわゆる内勤車掌等の職場での実際の立場を考えて、これら相互間の指揮命令系統を明示したものではなかった。そして、国鉄におけると同様に、各個別の車掌区の実情にあわせてこれらの関係をも明示した別途の定めがなされることになっていたが、それは、昭和六二年四月ないし六月当時の新宿車掌区においては、未制定の状態にあった。すなわち、当時新宿車掌区では、前記運転作業内規に代わる運転作業要領の原案を作成して東京圏運行本部に提出してあったもののいまだその了解は得られておらず、同要領についての東京圏運行本部の了承が得られ、社員に配付されて施行されたのは、昭和六二年一〇月下旬になってであって、それまでは、本件指定変更がなされた当時を含めて、従前からの運転作業内規に基づく運用がなされていた(なお、少なくとも田中が実際に就いていた業務内容に関する限り、右運転作業内規と右運転作業要領との間には違いがない。)。右運転作業要領には本件命令第1の2の(5)(一〇頁)記載の表のとおりの記載があるが、「運用教導掛」という呼称が内部規定上消滅したのは、右の時点で運転作業要領が運転作業内規と替わったことによるものである。したがって、原告発足に伴う就業規則制定により「運用教導掛」という職名はなくなり、これに代わって各担当や「内勤車掌」等の用語が実務上登場したが、昭和六二年四月ないし六月ころの新宿車掌区の規律の上でみれば、田中の就いていた地位は、後に施行される予定の運転作業要領の上で、「派出担当」、「運転担当」と呼ばれることが予定されていただけで、実際の運用の基礎となる内規の関係では、むしろ「運用教導掛」のままという中途半端な状態にあったことになる。

また、現実の業務内容という観点からみても、昭和六二年四月一日の前後で現実の業務は間断なく遂行されており、退職を前提として年次有給休暇の消化に入っていた名目だけの者は除き、原告発足前に運用教導掛であった者は皆、原告発足後もそのまま当該業務を担当しており、業務内容自体には何らの変更もなかった。したがって、原告の就業規則上の建前から、内勤と列車又は電車への乗務との間に形式的な上下関係がなくなったといっても、内勤車掌の乗務車掌に対する指導者的位置付けに変わりはなかった。とりわけ運転担当の者については、添乗等による乗務車掌の指導が業務のかなりの比重を占め、乗務員の点呼をとり、その報告を受け、列車又は電車に添乗して服務上の指導を行う立場にあった。

こうした業務内容と位置付けは、原告側においても当然の前提とされていた。すなわち、原告発足に伴って作られた「点呼マニュアル」にも、運転担当等の車掌が「上長」と明記され、右点呼や報告の方式につき、具体的な定めがなされ、「添乗指導の手引」にも、これを前提とした指導方法等の説明がなされていた。また、運転担当等が添乗時の指導状況を記録する新宿車掌区の「添乗指導記録簿」には、人事考課の直接資料ではないというものの、添乗者による指導に対する反応や「評価」をも記載することになっていた。さらに、新宿車掌区当局においても、同年五月一五日の区報「エスペランサ」で、内勤車掌のことをかっこ内書で「従来の運用教導掛」と表示するなど、内勤車掌の地位につき運用教導掛との同一性を前提とするような扱いをしていた。

さらに、昭和六三年四月には原告会社の制服が国鉄当時のものから変わったが、昭和六二年度内は、列車又は電車に乗務する車掌は、国鉄当時と同じ腕章を着用することになっていた車掌区が多く、新宿車掌区においても、発足後一年間は、「車掌長」、「専務車掌」、「車掌」という腕章を国鉄当時と同様に着用していた。また、原告発足当時、内勤車掌に対し引き続き「運教」あるいは「教導」という呼称が慣用され、内勤車掌は国鉄時代の運用教導掛が着用していた「教導」と記したプレートを着用することになっていた車掌区が多く、新宿車掌区においても、少なくとも発足後一年間は右「教導」のプレートを着用していた。

また、内勤と乗務車掌の実際の賃金の手取額を比較するとむしろ乗務車掌の方が多くなる傾向があるといっても、それは、次のような賃金支給規定のもとで相応の労働をする結果にすぎない。すなわち、諸手当等の面をみると、いわゆる泊り勤務をすれば二二時から五時までの時間帯の勤務に対するものとして夜勤手当が、列車又は電車に乗務すれば特殊勤務手当が、列車又は電車に乗務または添乗すれば乗務旅費又は添乗旅費が、また、超過勤務をすれば超過勤務手当が、それぞれ支給されることになる。右諸手当等のうち、夜勤手当は日勤の者には支給される性質のものではないといえるが、他の手当は、それぞれ列車又は電車に乗務又は添乗あるいは超過勤務をして支給要件を充たすことによって支給を受ける性質のものであった。したがって、乗務車掌は、これらの支給要件を充たす場合が内勤車掌と比較して多いのが通常であるので、内勤車掌よりも賃金が多くなる傾向があるわけであるが、当然のことながら、乗務をすれば、時間的に不規則になり、また、肉体的負担も大きくなるのが通常であった。

なお、昭和六二年四月一日以降本件指定変更前までの異動状況をみると、内勤の車掌が乗務車掌に異動した事例は東京圏運行本部全体でも一件もなかった。また、泊り勤務経験者から日勤勤務の者が人選されるという国鉄時代の運用と同様、原告が新会社として発足した昭和六二年四月一日以降本件指定変更までの間の新宿車掌区における事例として、日勤勤務(行路担当、営業担当、運転担当)の指定は、田中の場合を除くと、同年四月と六月にいずれも営業担当に指定された二例があり、そのいずれもが泊り勤務経験者から登用された。

3  (田中らの地位と担当業務等)

(一)  田中は、昭和四六年三月国鉄に正式採用され、同年八月から新宿駅に勤務し、昭和四九年八月新宿車掌区の車掌見習となり、同年一〇月一日車掌に、昭和六〇年四月一日専務車掌になった。

また、組合関係では、田中は、昭和四六年九月国労に加入して国労東京地本新宿駅分会に所属し、昭和四七年、昭和四八年は同分会青年部常任委員、昭和五〇年から昭和五二年までは補助参加人分会の青年部常任委員、昭和五五年以降は同分会の委員(昭和六〇年七月から昭和六二年三月までは運転班長・当時班員数約一〇〇人)をしていた。

国鉄において毎年行われた転勤、転職についての希望調査結果を田中についてみると、第一希望は、昭和五七年度は新幹線総局、昭和五八年度から昭和六〇年度まで東京車掌所で、いずれも新幹線関係の業務を第一志望としていたが、この間、第二希望は一貫して運用教導掛であった。昭和六一年二月に新宿車掌区の首席助役となった高橋健二は、若手職員を運用教導掛に登用して新しい発想のもとに積極的に車掌を指導、育成してほしいと考え、年令も若く、運転班長としてリーダーシップを発揮していた田中に対し、同掛になることを勧めたところ、田中もこれに応して、昭和六一年度は第一希望を運用教導掛と記載した。

昭和六二年三月、原告の発足を前にして運用教導掛一二名中四名が退職を前提として年次有給休暇の消化に入ったため、その補充のために、また、同時に原告発足後も存在する運用教導掛に対応する担当者の業務を行わせる予定で、四名の者を事実上運用教導掛に就ける人事が行われた。原告会社への採用が決まっていた田中もその一人であり、同月九日から、退職予定者の補充として派出担当運用教導掛の業務を事実上行うようになり、同月二七日には青木区長の推薦を受けて東京西鉄道管理局の行う面接試験を受験し、これに合格した。

田中は、昭和六二年四月一日の原告会社発足に際し原告に採用され、職名は運用教導掛から車掌に変更になったものの、担当業務として派出担当を指定される形式により、引き続き従前どおりの職務を行っていた。

同年五月一日、田中は、運転担当に担当業務の指定変更を受け、新宿車掌区本区において、かつての車掌長、専務車掌、車掌、車掌見習ら、列車、電車に乗務している車掌の指導育成を中心とする業務に就くようになった。国鉄当時は派出担当からの異動は一旦本区の概算担当あるいは操縦担当を経て日勤勤務に変わることが多く、原告会社となってからもこれと異なるといえる異動事例はいまだなかったため、周囲の社員からは、直接日勤勤務になったのは一種の抜擢人事だという受け止め方をした。このような人事は、青木区長が、高橋首席助役らの意見も取り入れ、田中が補助参加人分会の運転班長をしていたなどの点から「若さと行動力とリーダーシップに期待する」として行ったことであった。

右指定変更に際しては、二、三日間の業務引継ぎ期間がおかれたが、そのころ、田中は、いわゆるゴールデンウィークにおける増収活動として、内勤者による特別改札の提案をし、青木区長も即断でこれを採用して実施することになり、新宿駅の当時三、四番ホームで内勤者による特別改札が同年五月二日から同月五日までの四日間行われた。田中は、これにすべてに参加したこともあって、売上高が内勤車掌中で最も多かった。

(二)  吉沢は、昭和三六年国鉄に採用され、昭和四〇年八月に車掌となり、昭和四五年以降新宿車掌区で勤務し、専務車掌を経て昭和五八年五月に車掌長となったものであり、また、中込は、昭和三七年国鉄に採用され、昭和四三年九月に車掌となり、昭和四五年以降新宿車掌区で勤務し、昭和五五年三月に専務車掌となったものであり、いずれも原告会社発足に際し、原告に採用され、職名としてはいずれも車掌となったものの、従前どおり、吉沢は、いわゆる優等列車である特急「あずさ」に車掌の長として乗務し、中込も同特急に乗務していた。両名とも昭和三七年ないし昭和三八年から国労組合員であった。

4  (小集団活動の導入と本件指定変更当時の位置付け等)

(一)  国鉄は、予定された民営化に備えて民間企業の各種の管理技法を導入した。小集団活動もその一つである。それは、企業としての観点から、社員の自発的意欲を増進し、各人の能力と可能性を引き出し、企業の発展を目指すために、同じ職場内の小グループが自主管理活動を通じて職場改善活動に全員参加で継続的に取り組むというものであり、原告においては、発足以来、小集団活動推進委員会を設置し、そのもとに事務局を設置してその事務局長に人事課長をあて、次第にこれを充実させてきている。社員に配付される資料も平成元年の「小集団活動支援者マニュアル」、平成二年の「小集団活動ガイドブック」と年を追って解説の内容も充実、増加してきており、支援者や参加者に対する研修が行われるようになり、各種奨励金制度も定められ、経費の補助が行われて、多数の社員が参加するようになっている。もっとも、右のように奨励金制度等が実施されるようになったのは、原告発足後一年半を経てからであり、本件指定変更当時は、小集団活動推進委員会による右のような特筆すべき推進活動はいまだなされていなかった。なお、小集団活動と認められるためには原告への登録申出をすることが前提となっている。

これに対し、国労東日本本部の平成元年九月発行の「JRの安全を職場から総点検する!」という冊子には、小集団活動が非人間的な労務管理の手法であるとして、これに反対し、反撃する旨の記載があるが、田中が、右見解にそのまま同調して小集団活動に反対する言動を当時現実にとったことはなく、また、その後の小集団活動の状況をみると、国労組合員だからといって小集団活動に否定的な態度をとっているとはいえず、かなりの者がこれに参加している。

(二)  新宿車掌区においても、昭和六一年秋ころから、順次小集団が作られて活動するようになった。田中も、いわゆる鉄道マニアであったことから、同好の士を集めて鉄道の知識に精通することによって業務に資する情報を得る研究会を作ったらどうかという考えがあり、昭和六一年暮れころからは高橋首席助役らにその旨話していた。

(三)  ところで、昭和六二年四月中に新宿車掌区で作られていた小集団グループは、「あずさ会」と「研さん会」の二つだけであり、その後、同年五月一日付けで「宿研会」と「飛燕会」が結成されるようになった。その構成員をみると、「あずさ会」は鉄道産業労働組合の、「研さん会」と「宿研会」は当時の鉄道社員労働組合の、各組合員であった。また、「飛燕会」は助役によって構成される小集団であった。これらの行っていた活動状況は、「あずさ会」は同年四月及び同年五月に沿線ガイドブックや乗務員用鉄道英会話集を作成するなどしており、「研さん会」は国内旅行取扱主任試験の自主勉強会を行い、また、沿線ガイドを作成中であり、「宿研会」は営業・運転七曜日カレンダーの作成に取りかかるなどしていた。

しかし、同区におけるその活動の普及の程度は、同年五月までの時点でみれば、その後と比較するといまだ必ずしも一般化しておらず、小集団のメンバーは、同年四月当時は「あずさ会」の二〇名、「研さん会」の一七名の合計三七名程度にすぎず、同年五月の段階で結成された「宿研会」の三名、「飛燕会」の助役六名を加えても四六名であった。

区当局の態度も、昭和六二年一月になってようやく同区報「クリエイト」にそえて小集団活動とは何かを説明する一枚のパンフレットを配付した程度で、その後、同年四月になって、再度右同様に、一枚のパンフレットが配付されたが、それとていまだ小集団活動の簡単な啓蒙措置にすぎなかった。また、同年五月付けの小集団活動推進委員会事務局発行「小集団ガイドブック」も作られはしたものの、それは、社員一般に配付されていなかった。

(四)  新宿車掌区では、区長、助役、内勤車掌らが原則として毎週月曜日午前中に集まり、管理目標の研修等のために内勤研修会を行っていたが、昭和六二年四月二〇日以降同年五月二五日までの内勤研修会での検討を経て「昭和六二年度管理目標」ができ上がった。それには、同年度の管理の目標として一〇項目が掲げられ、それぞれに担当者として、一名の助役を責任者とし、これに二名程度の内勤車掌を補佐させることとされていた。昭和六二年五月に本区の運転担当内勤車掌になった田中は、「異常時体制の確立」と「小集団活動」の担当とされたが、小集団活動の「支援者」は助役であり、内勤車掌はその補佐役であった。

なお、右管理項目には、その一つとして「提案」も掲げられており、同月一八日の内勤研修会では、「小集団活動、提案制度は続ける、中身の濃いものを」という区長挨拶が行われ、同月二五日の内勤研修会でも、右各目標について推奨する発言があった。田中は、内勤車掌としての特別の担当ではなかったが、運用教導掛ないし内勤車掌になってから原告の売上向上のための各種提案をし、運転担当となったこの時期に二件の提案が採用されており、七曜日カレンダーの標語募集に応募して採用されたりもしていたものであり、その他、業務自体についても添乗回数も多いなどかなり評価さるべき勤務振りであった。

この間、田中は、高橋首席助役から、小集団活動の指導育成をするために有益なので既存の小集団に参加してみたらどうかなどと言われたが、既存のグループが国労から脱退した者によって構成されていたため、そのメンバーの中には入りずらい、従業員中には鉄道マニアが大勢いるので、それらの者を集めて業務研究会のグループを作ってみたい、などと答えていた。しかし、そのように話した構想ないし企画の具体的内容について突っ込んで尋ねられたり、何らかの指導を受けたりしたことは一度もなく、また、高橋首席助役らから、右のような構想についてその後の進展状況を尋ねられたりしたことはなかったし、他にも、小集団活動の推進に力を集中するように命ぜられたりしたこともなかった。

なお、昭和六三年夏に田中らが中心になって発足させた業務研究会は、いまだ原告への登録届出をしておらず、小集団活動の一つとは認められていない。

5  (本件指定変更とその前後の青木区長らの言動等)

(一)  昭和六二年五月二三日、成田山へ運転事故防止祈願に出掛けた新宿車掌区の内勤車掌らが、帰途神田の飲食店で飲食した際、高橋首席助役は、田中を誘って別の店に行き、そこで、同人に対し、「内勤は国労では困る。区長から再三言われている。俺の立場も考えてくれ。変わってくれ。ケイコちゃん(国労)じゃだめだよ。」などと国労からの脱退を勧奨した。

(二)  青木区長は、同月二五日の内勤研修会の席上、田中を含め二名の国労組合員のいる面前で、「この中に意識改革のできない者がいる。内勤は国労ではだめだ。うちの分会は組織率が高い。狙われている。ましてや内勤に国労がいるのはまずい。」という趣旨のことを述べて、田中らに対し、国労からの脱退を勧奨した。そして、同日午後の区長、助役による幹部会において、田中の扱いについての話し合いがなされた。その後も、鵜沼指導助役や手島当直助役が、田中に対し、それぞれ「なんとかならないのか。」と国労からの脱退を勧めた。

(三)  同年六月五日、青木区長は、勤務終了後の田中を区長室に呼び、「決心はついたか。」と国労からの脱退勧奨に対する田中の返答を求め、「上から言われているので、国労では内勤はだめだ。変わってくれ。」などと再度脱退を勧奨し、田中が、「就職以来国労にいたので、そう簡単に変わるわけにはいかない。」と答えると、「周りに何回も変わったのがいる。一回くらい変わってもかまわない。」などとさらに脱退を慫慂し、その場に同席していた高橋首席助役において、田中に対し、同月八日までに再考するようにと告げた。

(四)  同月八日、田中が、朝の点呼終了後区長室に赴いて、青木区長と高橋首席助役に対し、やはり国労から抜けるわけにはいかない旨答えたところ、高橋首席助役は、同日昼休み、田中に対し、「本当にこれでいいんだな。」と念をおした。

(五)  前同日午前中内勤研修会が行われた後、同日午後、青木区長は、緊急幹部会を開き、田中の担当業務を運転担当内勤車掌から電車乗務に変更することを決定した。

そして、同日午後四時ころ、鵜沼指導助役から田中に対し、本件指定変更が通告され、翌日からE電に乗務するように命じた。その際、同助役は、田中に対し、「電車に降りるとみじめになるよ。」と言った。

(六)  本件指定変更に伴い、田中の後を埋める一連の人事異動が行われたが、その内容も、営業又は概算担当だった者を田中の後任に、その後任に操縦担当だった者を、操縦担当に中野派出担当の者を、中野派出担当に車内改札担当の乗務車掌をそれぞれあてるというように、日勤勤務の内勤車掌、泊り勤務の内勤車掌、乗務車掌という序列を示していた。

(七)  国鉄当時を含めて、このころまでの人事としては、月初めに勤務指定が変更されるということは異例のことであった。翌九日から、田中はE電に乗務するようになったが、田中の担当業務が変更になったことはたちまち補助参加人分会員らの間に広まり、同組合員らは、田中が脱退勧奨にもかかわらず国労を脱退しなかったために降格されたと受け止めた。

(八)  一方、右に先立って、補助参加人分会組合員である猪野康弘車掌が、添乗中の区長からの指導に反発したことを理由として乗務停止の処分を受けていた。同月九日、谷合補助参加人分会長は、青木区長に面会を求め、同日午後二時ころから約三〇分間、区長室において同区長、高橋首席助役と面談し、猪野の処分について、本人が反省の意を示した場合には宥恕してもらえるだろうかなどと尋ねた。青木区長は、現時点では本人の反省の色がみられないとして今後の問題である旨答えたが、続いて、「この前も言ったけど、新宿車掌区はK(国労)の組織率がずば抜けて高い。それで、本部の方からすれば、つぶせないかということで見ている。新宿車掌区というのは一番注目の的になっている。新宿車掌区だけが頑としてその数字が一定していると。区当局は何をやっているんだというわけ。ましてや、運教といわれる内勤の中にKいるじゃないか。今までだって全部出せって言われている。…組織が崩れないのは、あなたのところの管理が悪いんですよ。ましてや、内勤なんかに、中野派出含めてKを置いておくのは間違いですよと、そういう言い方までされちゃってるんだよ。…管理はまずいよ、とはっきり言われちゃう。だから、私はもう田中君には乗ってもらう。」などと話した。この間、谷合分会長からの発言は、若干の合いの手を入れただけで、とりたてて右のような発言を誘発するような言動はなかった。

(九)  同日、新宿車掌区事務所に、青木区長名の「区内の担当指定の変更について」と題する文書が掲示された。右掲示文には、企業体としての観点から同年七月一日以降順次担当業務の指定変更を実施し、毎月の勤務指定時に公表する旨の記載があった。

そして、同年六月一五日付けの新宿車掌区報「エンペランサ」には、右とほぼ同旨の記事のほか、「長距離交番(A・B・C)・車改交番・運転交番・内勤担当等を含め相互間の指定変更を実施いたします。」と注記されており、同月二五日に同年七月分の指定変更の発表を行う旨記載されていた。右の注記は、列車乗務、車内改札乗務、電車乗務、内勤車掌の相互間で指定変更があることを示したものであり、こうした方針を示されて、補助参加人ら組合員は、国労を脱退しないと意に反して交番を不利益に変更されるという危惧を抱いた。

(一〇)  同月一九日午後四時前ころ、鵜沼指導助役は、列車乗務を終えた吉沢及び中込を順次自席に呼び、それぞれ氏名欄を鉛筆書きで記入した勤務指定表(同月二五日に発表予定のもの)を示して、吉沢に対しては、「考えて行動をとらないと田中君のようになる。今度の区長はやるときはやるんだから。現在の交番にいられなくなるかも分からない。」と、中込に対しては、「氏名欄は鉛筆書きしてあるが、意識改革がない場合にはこの交番で乗れないこともあるので、よく考えるように。」と話した。

以上の事実が認められる。

なお、原告は、青木区長の谷合分会長に対する右5(八)の発言を録音した録音テープの反訳書である<書証番号略>には証拠能力がないと主張するが、この点に関する当裁判所の判断は次のとおりである。

<書証番号略>、弁論の全趣旨を総合すると、谷合分会長は、当時、補助参加人分会員が管理者に呼び出されて脱退の勧奨を受けることが多いという認識にたち、そのような不当労働行為を阻止するためには証拠を残す必要があると思い、同分会員に呼び出しのあったときに持たせようと考えて、録音の前日にマイクロテープレコーダーを購入していたものであること、もとより、同分会長は、当日は、あらかじめ無断録音をする意思で右テープレコーダーをポケットに入れて区長室に赴いたものであるが、その場の状況は、同分会長の方から青木区長の不当労働行為的発言を引き出そうとした形跡は何もなく、同分会長は、ほとんど一方的に話を聞いていただけであること、とくに、同分会長の方から田中の話題を出したようなこともなかったこと、また、もともと、同分会長としては、もっぱら、猪野車掌に反省の態度をとらせるなりして同人に対する処分を軽減してもらう方策はないかと探りに行ったものであること、このような状況からして、テープレコーダーの性能を試すために無断録音をしたという同分会長の弁明はあながち排斥し得ないことがそれぞれ認められる。そして、<書証番号略>の内容をみると、それは、前記のように直截な不当労働行為意思の表明に終始しているものであって、一方において、本件訴訟の中心的争点に直接かかわる極めて重要な証拠としての意味を持っているのに対して、他方において、原告の営業上の機密や話者である青木区長個人の私生活上の秘密などには直接何の関係もない。以上のような事情に照らすと、無断での録音ということ自体で原告及び青木区長の法益を害する側面があるとしても、それだけで著しく反社会的であるとか、労使間の信義に反するとまではいえず、その証拠能力を否定するのを相当とするには至らない。

二そこで、以上の認定事実に基づいて不当労働行為の成否について判断する。

1 (本件指定変更について)

(一) 被告及び補助参加人らは本件指定変更が労働組合法七条一号の「不利益な取扱」に当たると主張するのに対して、原告は右不利益性を否定しているが、労働組合法七条一号の「不利益な取扱」とは、不当労働行為に関する法制度の目的に照らして、労働者の団結権及び団体行動権を侵害する性質の行為、換言すれば、組合員の組合活動意思を萎縮させ組合活動一般を抑圧ないし制約する効果を有するものと認められる取扱いを指すものと解すべきである。したがって、その取扱いが「不利益」であるかどうかの判断に際しては、賃金の減少等の経済的不利益性や制度の建前の上での不利益性の有無に限らず、当該職場における従業員等の一般的認識内容等をも考慮し、当該組合が基盤としている従業員らの一般的認識の上でも、また当該取扱いを受けた者としても、およそ不利益であると受け止めるような取扱いであれば、その認識が客観的根拠を有するものである限り、「不利益」性が認められるものというべきである。そして、使用者において、右のような意味での不利益性を認識した上で、それによって組合活動に対して不当な制約を加えることを企図した場合には、不当労働行為となるものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、国鉄当時においては、その就業規則上も実際の運用上も、田中の就いてきた専務車掌の職から運用教導掛になることは昇格を意味しており、運用教導掛の中でも泊り勤務の者よりさらに日勤勤務の者の方が異動例からみて一段格上とみられていたこと、そのようにみられる実質的根拠として、運用教導掛の主たる業務が乗務車掌らに対する指導であったことやとくに運転担当運用教導掛が添乗等による指導、訓練を行うなど乗務員らに対する指導的立場が顕著であったことなどがあげられること、原告発足に伴い就業規則上の職制は国鉄当時とは異なるものとなったが、運転担当を含む各担当のいわゆる内勤車掌は、少なくとも本件指定変更当時、それぞれ国鉄当時における各担当の運用教導掛が行っていた指導的業務にそのまま就いていたこと、したがって、とりわけ運転担当が乗務車掌より格が上とみられる実質的根拠の点では国鉄当時と違いがなかったこと、原告自身が運転担当等の車掌をもって、それが行う点呼やこれに対する乗務員の報告等についての模範を示す点呼マニュアル等の資料の上で「上長」と表現していたこと、新宿車掌区当局も内勤車掌のことをかっこ内書で「従来の運用教導掛」と表示するなど内勤車掌が運用教導掛と同じ地位であるかのような表現を区報で用いたり、運用教導掛の一つの略称である「教導」と記載したプレートを着用させたりするなどの取扱いをしていたこと、後に新宿車掌区における指揮命令系統に関する基準となった運転作業要領は、当時は未制定で、運用教導掛を含む旧来の指揮命令系統を定めた国鉄当時の運転作業内規によって実際の運用がなされていたことなどの諸事情を総合すると、このような移行期にあった本件指定変更当時としては、新宿車掌区の社員らが、内勤車掌につき国鉄時代と同じく「運教」という略称を使うことがあったのもけだし当然であるということができ、田中はもとより補助参加人ら組合員らが本件指定変更をもって降格と受け止めたことは客観的根拠のあるものというべきである。そして、青木区長らの前記認定の諸言動に照らせば、同区長らとしては、本件指定変更によって田中を降格するという意識をもっていたことは明らかであり、また、高橋首席助役が国労からの脱退はできないと述べた田中に対して、「本当にこれでいいんだな。」と念をおしたのは、同首席助役が、青木区長とともに期限を付して迫った脱退勧奨を田中が拒否した以上内勤車掌ではいられなくなるという前提のもとでの発言とみられるし、また、鵜沼指導助役が本件指定変更の告知をした際に、「電車に降りるとみじめになるよ。」と言ったのは、それまで点呼をし、指導をしてきた立場から、点呼をとられ、指導を受ける立場に転ずることが、田中にとって「みじめ」な気持ちを引き起こすであろうことを忖度して述べた言葉であるとみるほかはないのであって、本件指定変更を行った青木区長の意図は、脱退勧奨に応じないことへの報復、みせしめとするところにあり、これを受けた田中本人も、また、これを知った各助役も、さらには補助参加人分会員らも、いずれも本件指定変更をもって国労からの脱退を拒絶したために被った不利益な降格と受け止めたものと解される。そうすると、本件指定変更は、労働組合法七条一号にいう「不利益な取扱」に当たり、かつ、不当労働行為意思に基づくものと認められる。

なお、原告は、国鉄時代の職名の細分化に対し、職名を主任車掌と車掌の二種に統合したから、内勤か電車乗務かという違いは、職制上の昇職にも昇格にも当たらないので、相互に有利か、不利かをいうことはできないと主張する。なるほど、前記認定の一2(二)の事実によれば、内勤車掌と電車乗務の車掌との間に職制上の上下関係はないことが認められるから、実際の運用が原告の主張するように本人の適性や業務の特性を考慮して、もっぱら適材適所で行われるにすぎないようになって、それが定着していたのであれば、担当業務の変更が「不利益」であるという受け止め方が国鉄当時の運用から類推した単なる主観的な思い込みにすぎず、かつまた、使用者側に「不利益な取扱」をする意図がなかったといえる場合も考えられる。しかしながら、前示のとおり、少なくとも、原告会社発足後間もない本件指定変更当時には、原告主張のような定着した運用はなかったことが明らかであるから、新宿車掌区の社員一般の認識として田中が降格されたと受け止められたことが、誤った思い込みであるということはできないし、前記一5で認定したような青木区長らの言動に照らせば、使用者側の「不利益な取扱」の意図は確固たるものがあったと認められる。また、原告は、国鉄時代と異なり、適材適所による弾力的人事を行っているとして現在の運用方針を強調するが、本件指定変更の後に原告の方針として原告主張のような事態があり得るからといって、前記判断を覆すことはできない。

また、原告は、本件指定変更によって田中の賃金額は減るどころか増えていると主張するが、仮に田中に支給された賃金額が減っていないとしても、労働組合法七条一号にいう「不利益」ガ経済的なそれのみを指すものでないことは前示のとおりである。また、仮に田中の受ける賃金額が本件指定変更後、むしろ原告主張のように増加したとしても、それは、前示のとおり超過勤務等それなりの労働をすることによって支給要件をみたして給付されるだけのことで、そのことのゆえに本件指定変更が田中にとって利益な処遇として前示のような「不利益」性を喪失せしめるものとまではいえない。

(二)  原告は、田中が小集団活動に対して否定的な態度を取り続けたために本件指定変更をしたと主張する。なるほど、田中が本件指定変更前に既存の小集団に加入しておらず、また、自ら小集団を組織してもいなかったことは前示のとおりである。そして、小集団活動についての田中の発言によると、既存の小集団への参加についての同人の態度は消極的であるということができる。しかしながら、前記認定の経緯に照らせば、本件指定変更の動機が補助参加人ら組合からの脱退勧奨に応じなかったところにあることは明白であり、小集団活動に対する同人の右の態度がその動機になったものとは到底解することができない。すなわち、当時はいまだ小集団活動についての原告新宿車掌区での取組み自体が原告が主張するほどには活発ではなかったと認められるのであり、また、高橋首席助役らの田中に対するこの点に関する態度も、それをしなければ降格するというほどに明確で強いものであったとは解し得ない。田中は、前記認定のとおり、助役の補佐役であるにせよ、同年度の管理目標上の担当の一つとして「小集団活動」の割当てを受けたのであるから、「小集団活動」の指導育成も田中の業務の一つであったことはいうまでもないけれども、田中が小集団活動の担当となった五月以降本件指定変更までの約一か月間の経過をみる限り、田中の言動には小集団活動に対して格別否定的だといえるだけのものは認められない。かえって、同人が既存のグループには入りずらいというものの、鉄道マニアを集めて業務研究会のグループを作ってみたいなどと述べていたことは前記認定のとおりである。したがって、仮に、原告が主張するほどに小集団活動を重視していたというのであれば、当然、田中の述べた構想あるいは企画の中身をさらに具体的に尋ねるなりして、それが原告会社の意図するところに合致しないというのであれば、さらに指導するのが当然であると考えられるのに、前記のとおりそのようなことがなされた形跡はまったくない。こうした経過なくして、漫然話はきいたが実行されなかったとしてそれを理由に本件指定変更を決するに至ったという説明は到底納得し難い。

(三)  以上のとおりであるから、本件指定変更は労働組合法七条一号に該当し、また前記認定事実によれば不利益取扱の性質を有する本件指定変更をなす権限を持つ青木区長が補助参加人ら組合の弱体化を企図してなしたものといえるから、組合の組織、運営に介入するものとして同条三号にも該当する。

2  (鵜沼指導助役の言動について)

前記一5(一〇)の鵜沼指導助役による吉沢、中込に対する交番上の不利益取扱を示唆してなした脱退勧奨は、青木区長の意を体して補助参加人ら組合の組織、運営に介入するものとして労働組合法七条三号に該当する。

三よって、初審命令を維持した本件命令には違法な点はないから、原告の請求は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用(補助参加によって生じた費用を含む。)の負担について行訴法七条、民訴法八九条、九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官相良朋紀 裁判官松本光一郎 裁判官岡田健)

別紙(一)

主文

1 被申立人東日本旅客鉄道株式会社は、申立人国鉄労働組合東京地方本部八王子支部新宿車掌区分会所属の組合員田中博に対し、昭和六二年六月八日付で行った内勤の運転担当から電車乗務への指定替えを撤回し、内勤の運転担当に復帰させなければならない。

2 被申立人会社は、申立人分会所属の組合員に対し、申立外国鉄労働組合に所属している限りは担当業務の不利益な指定変更がありうる旨の言動を行ってはならず、また申立外同組合に所属していることを理由としてそのような担当業務の指定変更を行ってはならない。

3 被申立人会社は、本命令書受領の日から一週間以内に、五五センチメートル×八〇センチメートル(新聞紙二頁大)の大きさの白紙に、下記内容を楷書で明瞭に墨書し、被申立人会社の新宿車掌区内で従業員の見易い場所に一〇日間掲示しなければならない。

昭和○年○月○日

国鉄労働組合東京地方本部

執行委員長 佐藤智治殿

国鉄労働組合東京地方本部八王子支部

執行委員長 新井重雄殿

国鉄労働組合東京地方本部八王子支部新宿車掌区分会

執行委員長 谷合和雄 殿

東日本旅客鉄道株式会社

代表取締役 住田正二

当社が、昭和六二年六月八日付で、貴組合所属の組合員田中博氏に対し内勤の運転担当から電車乗務へ指定替えをしたこと、および分会員吉沢文夫、中込泉の両氏に対し、国鉄労働組合に所属している限りは担当業務の不利益な指定変更がありうる旨の言動を行ったことは、いずれも不当労働行為であると東京都地方労働委員会において認定されました。

今後、このような行為を繰り返さないよう留意します。

(注、年月日は文書を掲示した日を記載すること。)

4 被申立人会社は、前第一項および第三項の命令を履行したときは速やかに当委員会に文書で報告しなければならない。

別紙(二)命令書

主文

本件再審査申立てを棄却する。

理由

第1 当委員会の認定した事実

1 当事者等

(1) 再審査申立人東日本旅客鉄道株式会社(以下「会社」という。)は、昭和六二年四月一日、日本国有鉄道改革法に基づき、日本国有鉄道(以下「国鉄」という。)が経営していた旅客鉄道事業のうち、東日本地域(北海道を除く青森県から静岡県の一部までの一都一六県)における事業を承継して設立された会社で、肩書地に本社を置き、本件初審申立当時その従業員は約八二〇〇〇名である。

(2) 再審査被申立人国鉄労働組合東京地方本部(以下「東京地本」という。)は、申立外国鉄労働組合(以下「国労」という。)の下部組織である労働組合で、会社の事業地域のうち東京を中心とする地域で勤務する者等で組織し、本件初審申立当時の組合員は約一三〇〇〇名である。

(3) 再審査被申立人国鉄労働組合東京地方本部八王子支部(以下「八王子支部」という。)は、東京地本の下部組織である労働組合で、会社の従業員のうち横浜線、南武線、中央線、八高線、武蔵野線、青梅線及びこれに関連する職場に勤務する者等で組織し、本件初審申立当時の組合員は約一七〇〇名である。

(4) 再審査被申立人国鉄労働組合東京地方本部八王子支部新宿車掌区分会(以下「分会」という。)は、八王子支部の下部組織である労働組合で、会社の東京圈運行本部新宿車掌区に勤務するもので組織し、本件初審申立当時の組合員は一一八名である。

(5) なお、会社には、国労の下部組織である東日本本部(組合員約二二〇〇〇名)があるほか、全日本鉄道労働組合総連合会(昭和六二年二月結成。同年一一月当時、組合員約一三〇〇〇〇名。以下「鉄道労連」という。)所属の東日本旅客鉄道労働組合(昭和六二年八月結成。同年一一月当時、組合員約五〇〇〇〇名。以下「東鉄労」という。)、日本鉄道産業労働組合総連合(昭和六二年二月結成。同年一一月当時、組合員約三〇〇〇〇名。以下「鉄産総連」という。)所属の東日本鉄道産業労働組合(昭和六一年一二月結成された東日本鉄道労働組合が昭和六二年三月、現在の名称に変更。同年一一月当時、組合員約七〇〇〇名。以下「東日本鉄産労」という。)等の労働組合がある。

2 本件に至るまでの労使の事情

(1) 昭和六〇年七月二六日、国鉄監理委員会は、国鉄分割等を内容とする「国鉄改革に関する意見」を内閣総理大臣に提出し、政府は、同年一〇月一一日に「国鉄改革のための基本方針」を、同年一二月一三日に「国鉄余剰人員雇用対策の基本方針について」を、翌六一年一月二八日に「国鉄長期債務等の処理方針について」をそれぞれ閣議決定した。また、政府は、同年二月二八日「日本国有鉄道改革法」案を閣議決定する等して、国鉄改革関連法案を順次国会に提出した。しかし、同法案は、同年六月二日衆議院の解散により廃案となり、総選挙後の同年九月一一日国会に再提出され、同年一一月二八日可決成立し、同年一二月四日公布施行された。同日、設立委員が任命されて以降、設立委員会の開催、希望退職者の募集、承継法人の職員となる意思確認書の提出、採用者に採用通知を行う等の準備が進められ、昭和六二年四月一日いわゆる国鉄の分割民営化が行われ、会社が設立された。

(2) 他方、昭和六一年四月国労を脱退した者等は、真国鉄労働組合(以下「真国労」という。)を結成した。同年七月一八日真国労、鉄道労働組合(以下「鉄労」という。)、国鉄動力車労働組合(以下「動労」という)及び全国鉄施設労働組合(以下「全施労」という。)は、国鉄改革労働組合協議会(以下「改革労協」という。)を結成し、同年八月二七日改革労協は、国鉄と第二次労使共同宣言を締結した。

そして、昭和六二年二月二日鉄労、動労、日本鉄道労働組合(昭和六一年一二月一九日真国労、全施労が統合して結成。)及び鉄道社員労働組合(昭和六二年一月二三日結成。以下「社員労」という。)は、鉄道労連を結成した。

また、昭和六一年一二月から翌六二年一月にかけて国労を脱退した者等により各地域ごとに東日本鉄産労などが結成された。このためもあって、国労の組合員は、昭和六一年四月当時の約一八七〇〇〇名から同六二年当初において約八四〇〇〇名に、同年四月には約四五〇〇〇名に減少し、その後も減少傾向が続いた。

(3) 会社は、首都圏の列車、電車の運行を司る東京圏運行本部を設け、その下に現業機関として車掌区、電車区等を置いている。

新宿車掌区は、東京圏運行本部の現業機関の一つであり、その担当範囲は、列車区間として新宿から南小谷までと千葉まで及び電車区間として三鷹から千葉までと、中野から三鷹までの営団地下鉄東西線であって、その行路総数は六七、従業員は昭和六二年四月会社発足当初約一六五名であった。

なお、国鉄当時の新宿車掌区は、東京西鉄道管理局の下の現業機関の一つであり、その職員は、昭和六〇年当時約二〇〇名、昭和六一年四月当時約一八五名であった。

(4) 国鉄当時の就業規則の別表によると、車掌区の指揮命令系統は次のとおりであり、各職の任命は、各鉄道監理局長名で発令されていた。

そして、区長は車掌区の業務全般の管理・運営を、助役は区長の補佐・代理を、運用教導掛(以下「運教」という。)は各助役の補佐を、車掌区は優等列車(特急・急行)に乗務する車掌の長を、専務車掌は優等列車の乗務を、車掌は緩行電車又は列車の乗務を、それぞれ担当業務としていた。

また、当時の新宿車掌区の運転作業内規によると、指揮命令系統は次のとおりであった。

このうち、助役は首席一名、指導一名、事務一名及び当直三名で構成され、それぞれの業務を分担していた。

また、運教は、泊まり勤務の操縦担当(三名)、概算担当(三名)、派出担当(三名)と日勤勤務の行路担当(一名)、営業・運転担当(二名)があって、日勤勤務の運教は、泊まり勤務の運教経験者から指名される運用がなされていた。

そして、各担当運教の業務内容の概要は、次のとおりであった。

分担業務

内容

備考

操縦担当

ⅰ交番表、出退表等の作成及び要員の操配。

ⅱ運転達示類の抜すい。

ⅲ当直助役の代行及び補佐。

ⅳ乗務員指導(含む添乗)。

「交番表」とは、車掌の乗務する行路を日別に記載した勤務指定表。

概算担当

ⅰ担当業務及び特に指定された業務。

ⅱ当直助役の代行及び補佐。

「概算担当」とは、車内補充券(切符)の受け渡しと、その収入金を管理すること。

派出担当

ⅰ乗務員の出退確認。

ⅱ行路整理及び要員操配。

ⅲ当直助役の補佐。

ⅳ乗務員指導(含む添乗)。

「派出担当」とは、中野派出所において左記業務を担当すること。

行路担当

ⅰ乗務行路関係全般にわたる業務。

ⅱ乗務員指導(含む添乗)。

ⅲ担当助役の補佐。

営業・

運転担当

各担当助役を補佐し、命じられた業務を行うとともに、

添乗その他乗務員の指導訓練、車掌見習の養成指導等の業務を行う。

なお、車掌から専務車掌へ及び専務車掌から車掌長への昇職は、ほぼ年功序列的に運用されていた。これに対し、運教への昇職は、通常、車掌長ないし専務車掌の経験者で、本人が希望する者の中から区長が推薦し、東京西鉄道管理局の面接試験に合格することが必要とされていた。そして、給与上の最低職群が専務車掌は五職群、車掌長は七職群、運教は七職群とされていたため、運教に発令された職員が未だ運教の最低職群に達していなかった場合には、最低職群に昇級するため基本給がアップすることもあった。

また、新宿車掌区の職員は、転勤転職希望等を記載する身上調書を毎年一回提出したが、それによると、第一希望を新宿車掌区の運教とした職員数は、次のとおりであった。

年度

57年度

58年度

59年度

60年度

61年度

職員数

233名

206名

210名

199名

185名

運教希望

10

7

1

3

4

内訳

車掌長

3

2

0

1

1

専務車掌

6

5

1

1

2

車掌

1

0

0

1

1

なお、昭和六一年度の車掌長三一名のうち希望を記載した職員は、他区(東京西鉄道管理局内で他の車掌区)一名、運教一名の計二名であり、専務車掌六七名のうち希望を記載した職員は、他区二名、管外(東京西鉄道管理局外へ転出)六名、運教二名の計一〇名であった。

(5) 会社の就業規則の別表によると、車掌区の指揮命令系統はつぎのとおりである。

これは、国鉄当時に一〇職群以上の運教及び車掌長が主任車掌とされ、九職群以下の運教、車掌長及び専務車掌はすべて車掌に統一されたものであり、新宿車掌区においては、その職への発令は東京圏運行本部長が行うこととなった。

また、新宿車掌区の運転作業要領によると、指揮命令系統は次のとおりとされた。

このうち、操縦等の各担当車掌は、内勤車掌と呼称され国鉄当時の運教の業務を行っているが、就業規則上の職名でないため、その指名は区長の権限とされ、区長は、車掌の中から人選して担当業務の指定をするという形式をとるようになった。

このため、内勤車掌に指定されても、運教に昇職した場合のように基本給がアップすることはなくなった。しかし、内勤車掌の業務内容、各担当の人数、泊まり勤務経験者から日勤勤務の担当となる人選がなされる等の運用は、国鉄当時の運教と同様であり、また、各人が着用するネームプレートには国鉄当時と同じく「教導」と記載されており、さらに、列車・電車に乗務する車掌の腕章には、国鉄当時と同じく「車掌長」、「専務車掌」または「車掌」と記載されていた。

なお、会社では、発足時から昭和六三年七月頃までは上位の職に昇進する基準が定められておらず、その間の昇職はほとんどなかった。

(6) 新宿車掌区においては、国鉄当時は区長及び助役が管理職とされ、労働組合に加入できないこととされていたが、会社では助役も労働組合に加入できることとされ、首席助役以下の助役は、昭和六二年五月九日結成されたJR東日本鉄輪労働組合(その後、同年八月、東鉄労に組織統合。以下「鉄輪労」という。)に加入した。

また、昭和六一年九月当時は運教の一二名以下組合員資格を有する者のほぼ一〇〇%を国労が組織していたが、同年一二月以降運教を中心に国労を脱退する者があり、昭和六二年四月当時国労に所属する分会員は一二八名と、その組織率は約八〇%となった。そして、四月当時の内勤車掌一二名中国労の組合員は四名、東日本鉄産労の組合員は三名、社員労の組合員は五名となり、また、六月九日以降国労の組合員は二名、東日本鉄産労の組合員は四名、社員労の組合員は六名となっている。

3 田中の勤務状況等

(1) 国労に所属する分会員田中博(以下「田中」という。)は、昭和四六年三月に国鉄に正式採用され、同年八月から新宿駅に勤務し、昭和四九年八月三〇日新宿車掌区の車掌見習となり、同年一〇月一日車掌、昭和六〇年四月一日専務車掌となった。そして、田中は、同六二年三月九日から泊まり勤務の派出担当運教の業務を事実上行うようになり、同月二七日区長の推薦を受け、東京西鉄道管理局の面接試験に合格した。同年四月一日田中は、会社に採用され、職名は車掌と変更になったが、業務はそれ以前と変わらず、派出担当の内勤車掌の業務であったところ、同年五月一日同人は、日勤勤務の運転担当の内勤車掌に担当業務の指定替えをされた。

なお、新宿車掌区長は、田中の勤務実績を評価し、職場活性化のための若手としてのリーダーシップを期待して、専務車掌の田中に対して派出担当運教の業務を事実上行わせ、また、日勤勤務の内勤車掌に担当業務の指定替えを行ったものである。

また、田中は、昭和四六年九月、国労に加入すると同時に東京地本の新宿駅分会に所属し、同四七年、同四八年に同分会青年部常任委員、同五〇年から同五二年まで新宿車掌区分会の青年部常任委員、同五七年以降分会委員(同六〇年七月から同六二年三月まで分会運転班の班長)を歴任している。

(2) 新宿車掌区では、会社が発足した昭和六二年四月以降、一〇項目の管理目標を定め、一項目毎に助役一名・内勤車掌二名を担当者として配置し業務改善を図っている。そして、管理目標中の「提案」については国鉄当時も同様に行われていたところ、田中はこれに参画し、昭和六一年度に採用された二六件の提案のうち、同人のものが二件採用されている。

また、田中は、管理目標中の「フロント・サービス」に参画し、同人の応募した標語が採用されている。さらに、田中は、管理目標中の「増収活動」に参画し、昭和六二年のゴールデンウィークの際、他の内勤者らとともに増収活動に取り組み、内勤車掌の中でトップの成績を挙げている。

(3) 新宿車掌区では、昭和六一年九月頃から、職場の体質改善、職員一人ひとりの隠れた能力を引き出すこと等を目的として、三名〜八名程度のグループを作り、日常の仕事とは別に自主的に職場の身近な問題を解決するための「小集団活動」を進めてきた。

会社においても引き続き小集団活動を推進することとなり、上記管理目標の一項目とされた。田中は、内勤車掌としてそれの担当者の一人とされ、全員参加、全員実践を目標にグループの指導育成等を行うよう期待されていた。

しかしながら、昭和六二年五月当時新宿車掌区内の小集団活動グループは、「あずさ会」が東日本鉄産労の組合員により、「研鑽会」及び「宿研会」が鉄道労連を構成する組合の組合員により、「飛燕会」が助役クラスにより構成されていたことから、田中は、国労の組合員であるためそれに参加しなかった。

なお、上記グループの活動事例として、「あずさ会」による沿線案内資料の作成、「研鑽会」による都区内の中央線等の沿線案内ガイドの作成、「宿研会」による営業七曜日カレンダーの作成及び「飛燕会」による運転事故防止研究会の開催等が挙げられる。

また、田中は、首席助役高橋健二(以下「高橋首席助役」という。)から、小集団活動に参加するよう、あるいは、自ら小集団を組織するよう勧められたが、積極的な態度を示すことはなかったものの、鉄道マニアのグループによる業務研究会のようなものを作ってみたい等と述べたこともあった。

4 田中に対する担当業務の指定替えと区長らの言動等

(1) 昭和六二年五月二三日、新宿車掌区の内勤車掌等は、成田山に運転事故防止祈願を行った。その帰途、神田の飲み屋で、高橋首席助役は、田中に対し、「内勤は国労では困る。区長から再三いわれている。」という趣旨のことをいった。

(2) 五月二五日開かれた「内勤研修会」(区長、助役、内勤車掌らで毎週月曜日に開催。)の席上、新宿車掌区長青木今朝重(以下「青木区長」という。)は「この中にも意識改革のできていない者がいる。内勤は国労ではだめだ。うちの分会は組織率が高い。狙われている。ましてや国労がいるのはまずい。」という趣旨のことを述べた。この席には一〇名ほどの者が出席していたが、分会所属の内勤車掌は、田中を含め二名のみであった。

(3) 五月二五日昼食後、新宿車掌区で開催された幹部会(区長及び首席・指導・事務・当直の各助役により構成)において、田中が小集団の育成に取り組まず、職場活性化に消極的であり、内勤車掌として期待に反するので、担当業務の指定替えをしようかという意見が出された。

(4) 六月五日、青木区長は、勤務終了後の田中を呼び、「決心はついたか。」、「上からいわれているので、国労では内勤はだめだ。変わってくれ。」という趣旨のことをいった。これに対し、田中が「就職以来、国労にいたので、そう簡単に変わるわけにはいかない。」と答えたところ、青木区長は「周りに何回も変わったのがいる、一回ぐらい変わってもかまわない。」という趣旨のことをいった。そして、同席していた高橋首席助役は、田中に対し「月曜日(八日)までにもう一度考えるよう。」といった。

(5) 同月八日、朝の点呼終了後、田中が区長室に赴いたところ、青木区長は、「決心はついたか。」と尋ね、田中は、「考えは変わらない。」と答えた。同日昼休み、高橋首席助役は、田中に対して「本当にこれでいいんだな。」と述べた。

同日午後、緊急幹部会が開催され、田中を内勤の運転担当車掌から、電車乗務の車掌に担当業務の指定替え(以下「本件担務替え」という。)をすることに決定した。そして、同日午後四時頃、指導助役鵜沼一夫(鉄輪労組合員。以下「鵜沼指導助役」という。)は、田中に対して、上記決定及び翌九日から電車に乗務するよう口頭で通知した。その際、鵜沼指導助役は、「電車に降りるとみじめになるよ。」等と述べた。

田中は、翌九日から電車に乗務しており、同人の後任の運転担当内勤車掌には、営業担当内勤車掌の豊田二郎(東鉄労組合員)が、指定替えをされた。

ちなみに、新宿車掌区では国鉄当時から運教で身体不調を理由に電車乗務を希望した例もあったが、運教ないし内勤車掌から電車乗務に指定替えとなった例はない。

(6) 同月九日、分会執行委員長谷合和雄(以下「谷合分会長」という。)は分会員猪野某の乗務停止処分問題に関して、青木区長に面会を求め、午後二時頃から約三〇分間、区長室において青木区長、高橋首席助役と面談した。その話の中で青木区長は、「新宿車掌区は、K(国労のこと)の組織率が高い。」、「本部(東京圏運行本部のこと)から注目の的になっている。」、「本部からは運教といわれる内勤車掌にKをおいているのは間違いで、管理が悪いといわれている。」、「私はもう田中君に乗ってもらう(電車に乗務させること)。」、「本部は、担当課長、本部の人長(東京圏運行本部人事課長のことで担当課長でないという意味)が実態(新宿車掌区の)を見に来ている。」等という趣旨の事を述べた。

なお、面談の際、谷合分会長はテープレコーダーを持参し、話の内容を区長らの了解を得ることなく録音し、再審査被申立人は、その反訳文を本件の証拠として提出している。

(7) 六月九日、青木区長は、区長名で、「区内の担当指定の変更について」と題し、「…今回新企業体に働く社員として…各自のレベルアップを図るという観点から従来の延長線からの対応から一歩踏み出した考え方に立ち、区内の担当業務の指定変更を順次実施してゆきますので了知されたい。担当業務の指定変更は基本的には七月一日以降順次実施してゆくこととし、毎月の勤務指定時に公表することとする。」との文書を掲示(以下「掲示」という。)した。

また、六月一五日付け新宿車掌区報(エスペランサ)(以下「区報」という。)にも、上記掲示文書とほぼ同旨の内容が掲載されたが、その中で、六月二五日に担当業務の指定変更(七月分)の発表を行う旨述べられており、さらに、「長距離交番(A、B、C)・車改(車内改札のこと。)交番・運転交番・内勤担当等含め相互間の指定変更を実施いたします。」と注記されていた。

これらの掲示及び区報の内容について、分会員らは、国鉄当時から踏襲されてきた車掌→専務車掌→車掌長→泊まり勤務運教→日勤勤務運教という担当業務の指定替えとは異なる運用がなされうることを予告したものと理解し、田中に対する担当業務の指定替えとあわせて、内勤車掌であっても電車乗務とされ、あるいは、優等列車乗務から電車乗務とされるのではないかと理解する者もあった。

(8) 同月一九日、午後三時三〇分過ぎ頃、鵜沼指導助役は、列車乗務が終了した車掌吉沢文夫(分会員、国鉄当時車掌長であり、会社においても引き続き優等列車に乗務。以下「吉沢」という。)及び車掌中込泉(分会員、国鉄当時専務車掌であり、会社においても引き続き優等列車の乗務。以下「中込」という。)を順次自席に呼んだ。

午後三時五〇分頃から二〜三分間鵜沼指導助役は、吉沢に対し、「考えて行動をとらないと田中君のようになる。今度の区長はやる時はやるんだから。現在の交番にいられなくなるかも知れない。」という趣旨のことを述べた。

また、午後三時五五分頃から約五分間鵜沼指導助役は、中込に対し、「ここに七月分の交番予定表がある。氏名欄は今は鉛筆書きしてあるが、意識改革がない場合は、この交番で乗れないこともあるので、よく考えるように。」という趣旨のことを述べた。

(9) 吉沢及び中込は、鵜沼指導助役の発言は、上記掲示、区報及び田中に対する本件担務替えとともに照らし合わせると、国労を脱退しない場合、七月分の担当業務を優等列車乗務から電車乗務に指定替えをされる、あるいは、乗務からはずされるのではないかという不安、危惧を抱いた。そのためもあり、分会は、当日及び翌二〇日夕刻非番者集会を開き対応策を協議した。

そして、分会らは、当月二二日本件救済申立てを行った。

(10) 新宿車掌区では、毎月二五日に翌月の交番表を発表して、従業員各人の翌月の担当業務及び行路を周知しているが、六月二五日発表された交番表では、従前の担当業務等が大幅に変更されることはなかった。

第2 当委員会の判断

1 田中に対する担当業務の指定替えについて

(1) 会社は、初審命令が、昭和六二年六月八日付けの本件担務替えをもって不当労働行為にあたると判断したことは誤りであり取り消されるべきであるとして、次のとおり主張する。

国鉄当時の職制は、細分化され、現場段階で問題が生じていたため、会社は、それを改め、柔軟で機動的な業務の執行ができるように職名の簡素化を図った。車掌区においては、国鉄当時の一四職名から八職名に整理し、そのうち運教、車掌長、専務車掌、車掌の四職名を主任車掌と車掌の二職名に統合した。その結果、指揮命令系統上同一レベルに属する同一職名の中に、比較的責任の重い業務や比較的指導的な業務とそうでない業務が含まれることとなるが、その職名内の担当業務の指定は、従業員の能力、適性、業務の特性等を考慮して適材を適所に指定する現場長の専権事項としたものである。したがって、同一職名内の担当業務には、適・不適の問題がありうるとしても、それを有利・不利の評価の対象とすることはできない。そして、田中に対する本件担務替えは、同一職名内における内勤の運転担当車掌から電車乗務車掌への指定替えにすぎず、業務内容、勤務時間、賃金等の面はもちろん、組合活動の面でも不利益性があるということはできない。しかも、国鉄当時の運教は、職制上車掌長、専務車掌より上位の職とされていたが、新宿車掌区における職員の身上調書の希望内容によると、運教になるよりは乗車業務の希望が圧倒的に多かったのであり、必ずしも運教への昇職が有利とはいえなかったのである。ところが、初審命令は、国鉄当時の運教への昇職が実質的に有利であると事実を誤認し、会社の職制組織の認識を誤り、本件担務替えに不利益性を認める誤った判断をしている。

また、会社は、国鉄当時に引き続き小集団活動を重視し、新宿車掌区では、管理目標の一項目として掲げ、その担当者に田中を起用し、小集団活動の指導育成、具体的推進を実施するよう指示し、自ら小集団活動を組織するなり、同活動に参加するよう説得した。これに対して田中は、その指示に従わず、小集団活動に否定的態度を取り続けた。そこで、青木区長は、小集団活動の指導育成に力を発揮することを期待して内勤車掌に起用した田中が、三カ月を経過しても否定的態度であったため、従前の担当業務である電車乗務に変更したものであり、本件担務替えには合理的理由がある。

(2) 本件担務替えに不利益性なところがあるかどうかをみると、なるほど、前記第1の2の(4)及び(5)認定のとおり、日勤勤務の内勤車掌は、現場長の新宿車掌区長により、主任車掌・車掌の職にある従業員の中から担当業務の指定替えという手続によりなされ、それによって経済的に有利となるところがない等の点において、国鉄当時の運教とは就業規則上の地位、任命手続等の面で差異がある。

しかしながら、前記第1の2の(4)及び(5)認定のとおり、会社発足時の内勤車掌は、国鉄当時の運教が退職者を除いてそのまま指定され、その後も、車掌の職にある従業員の中から勤務実績、適格性及び協調性をみて車掌区長が指定しており、また、その呼称は、国鉄当時の運教から内勤車掌に変化したが、その人数や業務内容は国鉄当時と同じであり、着用するネームプレートにも国鉄当時と同じく「教導」と記載されている。さらに、日勤勤務の内勤車掌は、泊まり勤務の内勤車掌の中から指定される運用がなされていることも国鉄当時と同様であり、また、運教ないし内勤車掌から電車乗務にされた前例のないことが認められる。しかも、内勤車掌は、乗務員を点呼し、あるいは添乗指導する立場にあるのに対し、電車乗務の車掌は、内勤車掌から点呼や添乗指導を受ける立場となる。

これらよりみると、日勤勤務の内勤車掌から電車乗務の車掌に担当業務の指定替えをすることは、形式的には指揮命令系統上同一レベルの同一職名内で担当業務を変更するにすぎないといえるが、実質的には、日勤勤務の内勤車掌→泊まり勤務の内勤車掌→電車乗務車掌と二段階下位の業務を指定するものというべきである。なお、前記第1の4の(5)認定のとおり、鵜沼指導助役が本件担務替えを田中に伝えた際に、「電車に降りるとみじめになるよ。」と述べているところからみても、新宿車掌区では一般的に実質的な格下げとみられていたことが推認できる。

したがって、本件担務替えは不利益な取扱いであると認めることが相当であり、会社の主張は採用できない。なお、会社は、国鉄当時の新宿車掌区では車掌長及び専務車掌の多くが運教を希望していないところからすれば、職員は運教に昇職することを有利と認識していなかったというべきであり、会社においても内勤車掌と乗車業務車掌との間に有利、不利の差はないと主張する。

前記第1の2の(4)認定のとおり、国鉄当時の車掌長及び専務車掌は、多くが乗車業務を希望し、運教希望者は、少ないのであるが、それは車掌区の職員の多くは乗車業務に愛着をもち、運教の業務に積極的関心を示すことが少ないという職場の雰囲気を反映したものと推認される。しかしながら、運教に昇職することが助役への昇職のワンステップとみられていたのであるから、運教の希望者が少ないからといって、運教の地位と車掌長ら乗車業務職員との間に有利、不利の差があることを否定する理由とはなし難いのである。したがって、この点に関する会社の主張をもって、上記判断の結論を左右しうるものではない。

(3) 次に、会社は、田中が小集団活動に否定的態度を取り続けたことを理由に本件担務替えを行ったもので、その理由には合理性があると主張する。

なるほど、前記第1の3の(3)認定のとおり、会社は国鉄当時から小集団活動を推進し、新宿車掌区では昭和六二年五月当時東日本鉄産労の組合員及び鉄道労連を構成する組合の組合員並びに助役クラスを構成員とする四つのグループが沿線案内を作成する等の活動を行っていたことが認められる。

しかしながら、前記第1の2の(2)及び(6)認定のとおり、新宿車掌区では、国労から脱退した従業員が社員労、東日本鉄産労に、助役が鉄輪労に加入し、国労の分会員と対立する状況にあり、また、上記の小集団活動グループは、労働組合別に組織されていたのであって、国労に所属する田中がそれら既存のグループの活動に参加することは困難であったと認められる。そして、田中は、前記第1の3の(3)認定のとおり、高橋首席助役の説得に対し業務研究会のようなものを作ってみたい等と述べているのであって、積極的に小集団を組織することはなかったものの、小集団活動を否定する態度をとっていたとは認められない。

また、前記第1の3の(1)認定のとおり、青木区長ら新宿車掌区幹部は、田中の勤務実績を評価し、職場活性化のため若手としてのリーダーシップを期待して、派出担当の運教の業務を命じ、また、日勤勤務の運転担当内勤車掌に担当業務の指定替えをしている。さらに、前記第1の3の(2)及び(3)認定のとおり、田中は、小集団活動に積極的でなかったとはいうものの、新宿車掌区で定めた管理目標の「提案」活動や「フロント・サービス」活動、「増収活動」に積極的に参画し、その実績を挙げている。そして、会社は、同人が小集団活動に否定的であるという点以外、運転担当内勤車掌として、その仕事振りが不適切であるとの疎明をしていない。

このような状況の下で、会社が、泊まり勤務の運教の業務を行うようになってから約三カ月、日勤勤務の内勤車掌となってから一カ月余りの時期に、田中は小集団活動に否定的で、内勤車掌として適格性に欠けると判断して本件担務替えを行ったことは、いかにも急性にすぎるといわざるをえず、本件担務替えの合理性には疑問がある。

(4) 他方、前記第1の2の(2)及び(6)認定のとおり、昭和六一年後半から会社発足後の昭和六二年六月頃にかけて、国労を脱退した者等により社員労、東日本鉄産労等が結成され、それらの組合により鉄道労連、鉄産総連が結成される等して、国労の組合員は一般的に減少する傾向にあるなかで、新宿車掌区においては、国労を脱退した運教等が東日本鉄産労や社員労に加入したり、助役が鉄輪労に加入することもあったが、比較的国労の組織率が高い傾向が続いた。そのような状況の下において、青木区長は、前記第1の4の(2)、(4)及び(6)認定のとおり、①昭和六二年五月二五日内勤研修会において、田中ほか一名の分会所属組合員が参加している席上で、「この中にも意識改革のできない者がいる。内勤は国労ではだめだ。うちの分会は組織率が高い。狙われている。」等と述べ、②六月五日、田中に対して、「上からいわれているので、国労では内勤はだめだ。変わってくれ。」という趣旨のことを述べ、③同月九日、谷合分会長に対して、「新宿車掌区は、Kの組織率が高い。」、「本部からは運教といわれる内勤車掌にKをおいているのは間違いで、管理が悪いといわれている。」という趣旨のことを述べている。これらのうち、上記①の青木区長の発言にある「意識改革」の趣旨は、昭和六一年八月に国鉄監査委員会が昭和六〇年度監査報告書において、親方日の丸意識を払拭し、企業意識の発揮に努めるよう指摘していることに由来するものであるが、上記①ないし③の青木区長の発言は、前後の事情及び表現の趣旨からみて、新宿車掌区において分会の組織率が高いのは望ましくなく、国労に所属する組合員は内勤車掌の業務に従事すべきでなく、国労所属の内勤車掌は国労から脱退するように勧奨したものと認められる。また、高橋首席助役は、前記第1の4の(1)認定のとおり、同年五月二三日田中に対して、酒席の上で「内勤は国労では困る。区長から再三いわれている。」という趣旨のことを述べている。これは、酒席の上における発言であるとはいえ、青木区長の意を体して区長と同趣旨の発言をしたものと認められる。

そして、前記第1の4の(5)認定のとおり、六月八日青木区長は、田中の担当業務を内勤車掌から電車乗務とする本件担務替えを決定し、同日鵜沼指導助役は、田中にその旨を告げ、田中は、翌九日から電車乗務の業務に従事している。

(5) これらの事情を併せ考えると、青木区長は、内勤車掌が国労に所属したままでいることは困ると考え、田中をはじめとして分会員らに国労を脱退するよう勧奨する発言を行い、国労から脱退しない田中が小集団活動に積極的に取り組まないことを口実にして、同人に対し国労に所属していることの故をもって本件担務替えを行ったものといわざるをえず、これは、会社が田中に対して、組合所属を理由に行った不利益取扱いであるとともに、分会とその上部組織である八王子支部、東京地本及び国労の組織の動揺を狙った支配介入に当たると判断するのが相当である。したがって、初審命令の判断に誤りはない。

(6) なお、会社は、発言者に無断で録音したテープは録音の目的・手段・方法が著るしく反社会的であるから、その反訳文は証拠能力を有しないというべきところ、初審命令は、青木区長の言動について発言者に無断で録音したテープの反訳文を証拠として採用し本件判断をしているのであるから取消しを免れないと主張する。

しかしながら、会社の主張する録音テープは、前記第1の4の(6)に認定した昭和六二年六月九日午後二時頃から約三〇分間、新宿車掌区長室において谷合分会長が青木区長及び高橋首席助役と面談した際、同分会長が同区長らの了解を得ることなく録音したものであるが、同区長らの了解を得ていない一事をもって証拠能力を否定すべき理由とは認められず、この点に関する会社の主張は採用できない。

2 鵜沼指導助役の言動について

(1) 会社は、昭和六二年六月一九日に鵜沼指導助役が吉沢及び中込に対して、乗務行路や収入確保、運転事故防止の話をしたのみであるにかかわらず、初審命令が、同助役の言動をもって支配介入に当たると判断したことは、事実を誤認するもので取り消されるべきであると主張する。

(2) しかしながら、上記1の(4)判断のとおり、新宿車掌区の青木区長ら最高幹部は、昭和六二年五月下旬から六月上旬にかけて田中ら分会員に対して、内勤車掌が国労に所属していることは困る旨の発言を繰り返している。また、前記第1の4の(7)認定のとおり、六月九日の掲示及び同月一五日付けの区報において、新宿車掌区としては従来の運用と異なる担当業務の指定替えを順次実施する旨を公表し、それに対して分会員の中には、国労から脱退しない場合、担当業務が不利益に指定替えされるのではないかと、その内容を理解する者もあった。このような状況の下において、区長及び首席助役に次ぐ新宿車掌区の幹部である鵜沼指導助役は、六月一九日に吉沢及び中込と面談した際、前記第1の4の(8)認定のとおり、「考えて行動をとらないと田中君のようになる。…現在の交番にいられなくなるかも知れない。」とか、「ここに七月分の交番予定表がある。…意識改革がない場合は、この交番で乗れないこともある」という趣旨のことを述べたものと認められる。そして、これらの発言は、単に乗務行路に関するものというよりも、当時の新宿車掌区の状況よりすれば、考えて行動をとるとか、意識改革をするとかいうことは、国労から脱退することを意味するものであって、鵜沼指導助役の発言の趣旨は、国労から脱退しない場合には従来の交番表によって乗務できなくなるとの不利益を示唆するものである。したがって、一般的な乗務行路等の話をしたのみであるとの会社の主張は採用できない。

(3) そうすれば、担当業務の指定替えの権限がもっぱら区長に委ねられている本件にあっては、鵜沼指導助役が青木区長の意を体して、分会員に対し国労から脱退しない場合、担当業務を不利益に指定替えすることがありうる旨を述べて、国労からの脱退を慫慂したものといわざるをえず、これは会社が分会とその上部組織である八王子支部、東京地本及び国労の組織の動揺を狙った支配介入に当たると判断するのが相当である。したがって、初審命令の判断に誤りはない。

以上のとおり、本件再審査申立てにはいずれも理由がない。

よって、労働組合法第二五条及び第二七条並びに労働委員会規則第五五条の規定に基づき、主文のとおり命令する。

昭和六三年一二月七日

中央労働委員会

会長 石川吉右衞門

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